曦瑶

「陳情令」金光瑶と藍曦臣についての彼是

阿瑤は、母孟詩をどう思っていたか。

前に「卑しい生まれ卑しい育ち」という言葉について書いたことがあるけれど、
阿瑤は、娼婦・妓女を卑しい職業だとは思っていなかったろうと私は、思う。
娼婦が産んだ子供であることを卑しい産まれ、
娼館で育った事を卑しい育ちというならば、
娼館を利用し女達を自分の性欲の為に消費し、娼婦に子供を産ませ
碌に金も渡さない男を下劣と言わずしてどうするのだ。
権力・財力を持つ男達に阿り弱い立場の女子供を貶め
「卑しい生まれ卑しい育ち」と蔑む者達の心根こそが「卑しい」のだと
私は、思っている。
だから阿瑤が「妓女の子」と呼ばれて怒るのは、
決して母孟詩が妓女だったことを恥じているからではなく、
廻りが阿瑤を非難する時に阿瑤自身ではなく母孟詩を侮辱していたからだと思う。
父光善がいつか迎えに来てくれた時に恥じないように、
立派な教育を受けさせたい(まがい物を掴まされて大金を喪ってしまったけれど)
という思いから、孟詩は阿瑤にありったけの愛情を注いだ。
「君子正衣冠」
「金光善に迎えられる」
その願いは、阿瑤にとって重すぎる枷になってしまったけれど、
きっと阿瑤は、母のその願いは、幸薄い女人の儚い夢だと認識していただろうけれど、
生涯掛けて母の夢を実現しようと挑戦し続けた。
後年阿瑤は、育った青楼を燃やしたけれど、
自分が青楼育ちだという過去を消去しようとしたのではなく、
孟詩母子を虐げた人々への復讐だったろうと思う。
母孟詩をこれ以上「妓女」と蔑ませさせない、
青楼跡地に母の顔に似せた観音を祀ることで人々に母を崇めさせたい、
母の生前の屈辱を少しでも晴らさせたい、そういう気持ちがあったのでは、と思う。

 

 

いつか君に逢えたら

「CYCLE OF BIRTH / DR. ECHO-LOGIC」アルバム最後の曲は、

吉井和哉作詞吉井和哉が歌う
「LOVERS ON MAIN STREET/吉井和哉」だ。
はてなブログは歌詞が掲載出来るので載せる。

「LOVERS ON MAIN STREET/吉井和哉


ブラジル色の雨と 人々の谷間が
この街に散らばった悲しいシナリオ 映し出す土曜日
君はどこにもいない 僕は身体だけだ
もっと強くなるんだ 眠らないんだ
ヘラヘラ笑うなよ
いつからか裏通りが 賑やかになってきた
カラフルなビルの中 入ったけど何も無かった

アフリカ色の愛が 絶滅してしまった
もっと早く気づけよ 誰が悪いんだ
ボロボロこぼすなよ
寂れてた裏通りが 賑やかになってきた
思い出のあの角を 曲がったけど何も無かった
灰色の空は今 審判の真っ最中
いつか君に逢えたら 朝靄のいつものカフェで
コーヒーをおごるから

乾いた心に 水滴が広がる
裂く日をじっと待って 果物ナイフのように
踏まれた果実の敵をとらなきゃ 
魂のリンゴの皮をむくその日まで

いつからか裏通りが 賑やかになってきた
ビニールの傘をさし 人々が溢れてきた
僕はこの裏通りで  清らかな血を流し
いつか君に逢えたら 朝靄のいつものカフェで
コーヒーをおごるから


”裂く日をじっと待って 果物ナイフのように”
”魂のリンゴの皮をむくその日まで”

この曲が発表された時は、喪った恋人にいつか逢える日を待ち望んでいる
そういう歌だと思っていた。
喪った恋人というのは吉井和哉が解散させた最愛のバンド
THE YELLOW MONKEYを指すのだろうと。
けれど「曦瑤」を知った今では、
曦臣がその手で「朔月」で阿瑤の心臓を突き刺して
死なせてしまったその悔恨と懺悔の心象風景のように思える。
何世代もただ通り過ぎていく人々をずっと見遣りながら、
”いつか君に逢えたら”と
あの日喪った「阿瑤」に逢える日を夢見ている。
音も色も消えてモノクロームの世界が
阿瑤が現れたなら一瞬に鮮やかに耀く世界になるのだろう。
やるせない哀しみ漂う中にも
微かな光が差し込んで来るようなそんな歌だと思う。
「曦瑤」は、決して絶望なんかじゃない。
希望も光もきっとある。
私は、そう思っている。

 

 

CYCLE OF BIRHTH

CYCLE OF BIRHTH

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LOVERS ON MAIN STREET/吉井和哉

LOVERS ON MAIN STREET/吉井和哉

  • DR. ECHO-LOGIC
  • ダンス
  • ¥204
  • provided courtesy of iTunes

 

藍曦臣の閉関

原作「魔道祖師」において観音廟後に藍曦臣が閉関した事は、
番外編「家宴」に書かれている。
自ら閉関を解いたのか周囲(主に叔父上)から引っ張り出されたのかは
定かではないが、夜狩りの場所を間違えたり儀式の手順を間違えたり、
曦臣は心ここにあらずといった態で、藍啓仁が嘆いたという描写がある。
藍曦臣は、閉関中どう過ごしていたのか?
曦臣が一番心を痛めたのは、義兄弟の契りを結ぶことを自らが薦めて、
聶明玦と金光瑶と共に三尊と為った、その金光瑶が聶明玦を殺した、
藍家秘伝の「清心音」を教えた事実、
「乱魄抄」を盗み出していたという事実に打ちのめされたからだと思う。
聶明玦と阿瑤とのわだかまりは、承知していた筈。
原作で阿瑤が金鱗台大階段から明玦に蹴り落とされた場面に曦臣は居た。
けれど曦臣は阿瑤を宥めるだけで明玦を諫めはしなかった。
金光善(夫人も)が阿瑤をないがしろにし辛く当たるのを曦臣は
見知って居た筈だけれど、曦臣がそれに対処した形跡はない。
他家の内情に踏み込まないという慎みの所為かもしれないけれども、
私には曦臣の「調和を取り繕う」「見て見ぬ振りをする」
いつもの習性のような気がする。
観音廟で全てが明るみになり、聶懐桑に謀られて曦臣は、
阿瑤を刺してしまい、その結果阿瑤は死に至った。
曦臣は「阿瑤が判らない」と言う。
阿瑤と知り合って二十年近く、阿瑤が己に見せていた貌は
本当の阿瑤だったのか?全てが偽りだったのじゃないか?
最後に朔月で胸を刺した自分を阿瑤は恨んでいるのじゃないか?
だから最後の最期、阿瑤は己を突き放して置き去りにしたのじゃないか?
曦臣の苦悩は、これだろうと思う。
決して夜毎、血塗れの阿瑤が現れて、
曦臣に恨み言を言いに来るのでもなく、
曦臣へ死を誘うのでもないだろう。
曦臣の脳裏に浮かぶのは、
「何故、自分だけへは傷付けまいとした阿瑤を信じてやれなかったのか?」
「何故、あの時あの場面、阿瑤を守れなかった?」と
責め苛む自分の分身の姿だろうと思う。

閉関曦臣については、まだまだ考え尽くせない。
けれど、無理矢理復帰させるのではなく
思う存分か本人の気の済むまで答えを得るまで悟りを得るまで、
時間を掛けるべきだろうと思う。

 

 

母親達 孟詩、虞紫鴛、秦愫、江厭離etc.

母の日は過ぎてしまったけれど、もう一度
「陳情令」と「魔道祖師」に描かれた母親達についてのまとめ。

 

まず孟詩について
孟詩の阿瑤への強い願いは呪いになってしまったと私は思っているけれど、
決して孟詩が毒母だったと言っている訳ではない。
孟詩は、阿瑤が立身出世出来るよう、
そして父親金光善に認めて貰えるよう祈っただけだ。
けれどそれが無償の愛だったかと問われれば、私はそれだけではないと思う。
そもそも孟詩が金光善の子を身籠もった時、
原作では、その頃孟詩は同僚の妓女達に「年増」と評されるように、
既に若さを失いつつあった。光善の子を産むことで、
この境遇から抜け出せるのでは?身請けされるのでは?
という期待を持ったのだろうと思う。
実際には、真珠の釦一つ残して光善は去ってしまったけれど、
孟詩には、我が子孟瑤が学問を修め立派に成長すれば、
光善が迎えに来て呉れるのでは?という
儚い願いに縋ったのだろうと思う。辛い境遇に苦しみ
「妓女」という世間から蔑まれ続けた女性を誰が責められようか。
ただそんな母からの愛を一身に受けて育った阿瑤に、
「父光善に認められ、金家に入る」
という強迫観念とも言える枷を与えて仕舞った事実が哀しいのだ。

 

次に虞紫鴛について
ドラマ「陳情令」の方では、夫江楓眠とは、不仲ではあったものの、
心の底では互いに想い合っていたのだという
感動的な二人の死の描写があったけれど、原作では、そうではない。
江家に嫁いでからも、実家風の生活様式を変えず、自分専用の住居を作り、
実家から連れてきた金珠・銀珠の侍女達と過ごす。
実家の権勢をかさに半ば強引に江楓眠に嫁いだという引け目の裏返しなのか、
自分の出自を誇り夫を見下す言動をとる。
夫が魏長沢と蔵色散人の遺児魏無羨を連れ帰って来てからは、
事あるごとに我が子江澄と魏無羨とを比べ、江澄の心を追い詰めた。
江厭離と江澄の姉弟を愛していたろうが
夫との不和を子等に隠そうともしなかった態度は、
いただけないと思う。
止めは、魏無羨に掛けた最後の言葉「江澄を守りなさい」
あの場合、母としては、心からの願いだろうけれど、あれも呪縛だろうなあ。

 

金光善夫人
虞紫鴛と親友で互いの子を夫婦にしようと約束。
彼女も権勢を誇る家の娘で金光善は、彼女を正妻として遇した。
表向き大事にされつつも裏では、夫光善の女遊びに悩まされ、
後日阿瑤が金家に迎えられてからは、虐待を続けた。

 

秦夫人
金光善に襲われ秦愫を産んだ。
悩んだ末に金光瑶と秦愫との婚礼前夜に阿瑤へ真実を告げた。
彼女がもっと早くに告白していれば。
阿瑤と秦愫との交際初期に阻止していれば、と思うけれど
彼女は、出来なかったのだろうなあ。
気の毒だとは思うが彼女が侍女碧草に秘密を漏らしたのはどうかと思う。
相手選びなさいよ。碧草、お嬢様の為とか言いながら、
お嬢様の最大の秘密を翡翠の腕輪と引き換えに売ったのよ?

秦愫
何故彼女は、手紙を受け取って嘔吐するほど動揺したのか。
私は、以前からここで述べているけれど、金光瑶との異母兄妹の事実ではなく、
夫であり異母兄でもあった金光瑶という男が、
我が子阿松を殺したのではないか?という
疑惑についてこの上なく嫌悪したのだと思う。
十数年自分を愛し慈しんで来た、そう確信していた夫が、
未知の怪物だった、その事実に戦いたのだろう。
子を害した者への強烈な怒り、
それまでの情も何もかも吹き飛ばされてしまった。
阿松が生まれた時点で阿瑤が秦愫に打ち明けられていればなあ。
阿松が死ななくても阿瑤と秦愫の名誉が守られる
そんな策があったかも知れないのに。


江厭離
我が子金凌がいるにも関わらず、何故江厭離は、あの魏無羨への
討伐決起集会の場へ駆けつけてしまったのか?
危険は、判っていた筈だ。判っていてさえ、
魏無羨を止められるのは自分だけなのだと、江厭離は、
確信していたのだろう。

 

青蘅君と藍夫人

青蘅君とその夫人との関係はかなり謎だと思う。

原作でも詳しく描かれていないので推測の域だけれど

彼女が青蘅君の師を殺すに至ったのも彼が彼女に一目惚れし

半ば強引に連れ帰った事が発端だろうし、

そうでなければ罪人を妻とし軟禁状態に置く事もなかったろう。

藍渙を妊娠したことで彼女の命を奪わずに済んだとしても

閉関を続けた青蘅君との間に藍湛も生まれたということは

その後も性行為があったということで、

これは「愛し合っていたから」というだけの美しい話ではないと思う。

夫人にとっては月一回の子供達との面会を許される為に

心ならずも夫を受け入れていたのではないかと私は疑う。

夫人が病気だったという描写もなく突然

「もう逢いに行かなくて良い。(母は)もういなくなった」と

告げられたのは、藍夫人の自死を指していたのではないかと思う。

青蘅君は確かに連れて帰り隠すほど夫人を愛していたろう。

けれど夫人の方は、情はあれど純粋な愛ではなかったように思う。

翼をもがれて自由を奪われた金糸雀

子供達への愛も、命を捨ててさえ自由を手に入れたいという

彼女の願いを阻むことは出来なかったのでは?と思う。

 

もしも藍曦臣が観音廟の後、金光瑶を連れ帰っていたとしたら?

あの状況では、ほぼ不可能だったろうが、微かな可能性があったとしたら?

阿瑤は、籠の鳥に甘んじなかったろうなあ。

たとえ二人の間に確かに愛があったとしても。

 

 

『愛を知っている』?

あの世界の女性達皆辛いと思ってるけれど最も不憫なのは秦愫だろう。
阿瑶との契りは婚礼前のただ一夜限り、夫からは常に優しく大切にされたけれど、
阿松を亡くしてからも次の子を望まれず、
夫は側室を持とうとはせず金凌を後継者と定めた。
義兄の沢蕪君は一月も金鱗台に泊まり込み昼も夜(夜狩?)も
行動を共にしている。妻の立場は?
何不自由無く暮らしながらも抱える秦愫の虚ろさを阿瑶は感じていたのだろうか?
ドラマ版で虞紫鴛は江楓眠との心の絆を確かに感じて逝った。
江厭離も魏嬰を庇い江澄と魏嬰に看取られて亡くなった。

愛しい者を目に焼き付けて彼女達に救いはあったろう。
けれど愛する夫が実は異母兄で、我が子を葬ったという真実を
知ってしまった秦愫の最期は、あまりに酷い。
私は秦愫の死は、阿瑶に誘導されたのではなく秦愫が自らの尊厳を守る為、
憎みきれない阿瑶への愛の為の自死だと思いたい。
過酷な現実から秦愫を遠ざける事が彼女への愛だと
最善だと阿瑶は考えたのだろうけれど、
それはあまりに秦愫そのものを視てはいない傲慢な愛だよね。
阿瑶は本当の愛を知ってはいない。哀しいけれど。

阿瑶と阿松

阿瑶の母孟詩に対する深い敬愛、異母妹と知った後でも決して遠ざけること無く
身近に置き続けた秦愫への情、そして生涯白月光として敬い続けた
曦臣への情を思うと、阿瑶という人は、
決して愛を持たない人間ではなかったと思う。
青楼時代に恩を受けた思思の命を奪わなかったのも、
薛洋に止めを刺さなかったのも、
莫玄羽を追放だけに留めたのも、非情に成り切れない阿瑶の
心根の柔らかさ脆さの表れだと思う。
では何故、実の息子阿松の命を奪ったのか。
私は、阿瑶が直接手を下したとは、思っていない。
直接ではないが、物見台建設計画を巡って金氏内部での反対が続いていた頃、
阿瑶排斥の謀を知った阿瑶が物見台建設の悲願を遂げる為に、
その頃発育の遅れが顕著になり始めていた阿松の様子を憂いて、
「この機に乗じよう、今しかない」と、そう思い込んだのではないかと思う。
近親相姦の秘密を知られては為らない、物見台建設、
己の利益の為ではあるのだけれど、阿瑶は、この先知恵遅れとして、
世間の人々に侮られて過ごさねばならないかもしれない
我が子を不憫に思ったのではないだろうか。
学識を収め、人より遅い修練の初めながら力を蓄え世に昇った己が、
いつまでも「妓女の子」という差別に苦しめられ続けた苦しさ、悔しさ、哀しさ、
阿瑶は、阿松の一生続くかも知れない苦しみを思ってしまったのではなかろうか。
いっそ何も判らない今、死ぬのなら、この子の為では、と。
子の幸せを親が決めて良い筈など無いのに。
生きていれば阿松が幸せと感じる未来が開けたかもしれないのに。

私は、阿瑶の阿松殺しが許せない。
阿瑶の地獄は、阿松殺しで一層深まったと思う。
けれど、阿瑶に父性が無かったとは思えない。
阿瑶は、生涯において重要な決断を間違い続けた人だと思うが、
愛故に選んで仕舞った阿松殺しが阿瑶最大の間違いだったと思う。