曦瑶

「陳情令」金光瑶と藍曦臣についての彼是

アレキサンドライト


アレキサンドライトは、日中太陽光のもとで青みがかった緑色、
夜の人工光(蝋燭や白熱灯など)では、赤色に変る宝石です。
私がこの「アレキサンドライト」という存在を知ったのは、
随分昔、山藍紫姫子の「アレキサンドライト」からなので、
アレキサンドライト=両性具有(アンドロギュニュス)の
象徴的なイメージを持っています。
更にそれ以前に、半村良の「妖星伝」で天道尼が女之助と交合し、
彼の身体を取り込んで、両性具有となるその下りを読んで、
これこそが性における究極の完全体ではなかろうか、
これこそが理想像なのではなかろうかと考えるようになったのです。
私が「陳情令」の阿瑤に感じたのは、野心に向け雄々しく突き進む男性らしさ、
そして穏やかに優しく周囲に接する柔らかな嫋やかさ、
両性具有を思わせる二面性でした。

芳菲殿「密室」騒動の後、莫玄羽の身体に魏嬰の魂が宿っていることが明らかになり、
あの大階段で、魏嬰に惹かれつつある金凌を焚き付けて剣で刺すように
仕向けた阿瑤の狡猾さ冷酷さが際立ちます。
けれど「猫耳」の「送狗」を聴くとそして観音廟崩壊後の境内で
金凌が仙子を抱いて泣くシーンを思うと阿瑤の金凌への情も
確かにあったと感じられます。
猫耳」には、聶家に居た時、阿瑤だけが泣く赤子を
上手にあやしたシーンもありました。
あれも本当に優しい声色でした。阿瑤の本質は、こうだったろうと思います。

私は、阿瑤の犯した最大の罪は、我が子阿松殺しだったと思っているのですが、
阿瑤という人は、無条件で愛し愛される人を
求め続けた人だったろうと思っているのです。
ですから母を亡くした阿瑤は一度目父光善に拒絶された後、
聶明玦に必要以上に父性を求めてしまったのでしょう。
それが叶えられず袂を別った後も執着が残った。
結局自分を認めようとしない聶明玦を殺害に至るけれど、
頭部を手元に置き続ける。怖れつつも愛し続けていたのではないでしょうか。

そして聶明玦殺害後もその弟聶懐桑を手厚く援助し続ける。
罪の意識もあったろうけれど阿瑤は、力の弱い保護し続けるべき対象として、
聶懐桑を求めたのではなかと私は、思います。

この「父性」に焦がれる、無条件に愛してくれる愛する存在を求め続ける
という姿と我が子阿松の存在を抹殺してしまうその行い、
これは非常に矛盾しているように見えます。
ですが阿瑤は、自分が父光善に決して認められなかった、愛されはしなかった、
そして遂に殺害に至ったのですが、その後で、いよいよ阿松の発達の遅れが
明らかになりつつあった時に阿瑤は、父である自分の阿松への想い、「父性」と、
父光善の己への「父性」とを考えて強く怖れたのではないでしょうか。
無条件で愛したいのにそうではなくなる瞬間を怖れた。
そして自分の存在そのものを危うくする、己がこの世に生きる基盤すら揺るがす
存在たる我が子を怖れた。亡き者にしなければならないと考えてしまった。
誰よりも家庭という安全で確固たる基盤を望んでいた筈の阿瑤が
自らの手でそれを壊してしまう、これ以上の悲劇はないと、
私は、感じています。
自ら消さざるを得なかった「父性」、これを阿瑤は、
金凌や金鱗台に連れられて来た当時の莫玄羽に向けたのでは、ないでしょうか。

そして自分で気づかぬうちに「父」と「母」への満たされない情を抱える
曦臣に対して、阿瑤は、深く共鳴したのだと思うのです。

 

藍曦臣に対しては、彼と阿瑤の関係は、
もっと濃密に絡み合っていたのだと感じます。
曦臣も阿瑤も互いに空洞を抱えていた人達で、
阿瑤は己の空洞=乾きを自覚していたでしょうが、
曦臣は全く自分自身のそれに気づいていなかったろうと思います。
その二人が出逢い、ドラマや原作では描かれていない、
二人の二十年という長い歳月の間、
培わされた想いの嵩、それは想像以上に大きかった筈です。
曦臣と阿瑤は、それぞれが互いに「父性」と「母性」の慈しみを
相手に与え合っていたのだろうと思います。

「曦瑤」と名付けたブログを書いておきながら意外に思われるかも知れませんが、
(二次創作では色々捏造していますが)
私は、曦臣と阿瑤は、そういう関係がまったく無かったと思っています。
互いに「愛」だとは気づかなかった、気づこうとしなかったというべきでしょうか。
自分達はあくまでも「知己」「堅く信頼し合った義兄弟」
その一線を越える事は決して許されないのだとでもいうような。
お互いの依存と自制のバランスは、非常に危うくて本人達が気づかないうちに
それは濃密に熟成されていったのではないでしょうか。

 


阿瑤の本質についての話に戻りますが、
己の剣に「恨生」と名付ける程に社会を人を自分さえも憎み続けた阿瑤は、
己で気づかぬ心の奥底で人を信じ愛したいという渇望があったのではないでしょうか。

だからこそ秦愫を金凌を慈しんだその情は、「愛」に他ならなかったし、
曦臣へ向けた想いも確かに「愛」だったろうと思うのです。

アレキサンドライトの宝石言葉には、「二面性の象徴」のほか、
「高貴や栄光といった富や権力の象徴」、

「出生や誕生など繁栄の象徴」というものがあるそうです。
私が一番目を奪われたのは、
『アレキサンドライトは、周囲に振り回されずにありのままの自分を貫いて
生きる強さと柔軟性を与えてくれます』という記述でした。

もしも阿瑤が自分の二面性あるいは多面性を認識しそれを受容し、
今の自分のままありのままで生きている事を大切に出来ていれば、
世界は変っていたのでしょう。

阿瑤は「プリズム」だと思っていましたが、
私は今後「阿瑤はアレキサンドライトなのだ」と認識を改めます♪